慰霊の塔三六〇基

激戦地はいま-戦跡を歩く-

沖縄県内 各市町村の慰霊の塔

学徒隊を祀る慰霊の塔

将兵・無名戦没者を祀る慰霊の塔

諸団体の慰霊の塔

都道府県の慰霊の塔

慰霊の塔に刻まれた 
弔歌・碑銘

比謝川河口/北飛行場/中飛行場/嘉数高地/

前田高地/運玉森/弁ヶ岳/首里・司令部壕付近

/首里/夜/シュガーローフ/那覇市街/

那覇飛行場/島尻への道/南風原陸軍病院/

学徒隊の足あと/一家全滅/摩文仁丘/

最期の戦場/ガラビ壕/糸数壕/具志頭城跡下の地下陣地壕

描かれた沖縄戦

沖縄戦と皇民化教育

大平洋戦争の戦場と経過(図表)
沖縄戦/沖縄本島図/先島諸島図

沖縄本島南部の主な集落概図

第一章 平和

アカギの巨木がうっそうと繁る首里のハンタン山。首里城の石垣も古色蒼然…(昭和10年頃)

陽のあたる縁側で、糸をつむぐおばあさん。時間がとまってしまいそうな静かなひと時…
(昭和10年ごろ 首里)

交互に杵をついているアンマーたち(昭和10年頃)

布町風景(昭和10年ごろ 那覇東町)

守礼門下で憩う人びと。この戦前の国宝も、戦火で消えた(昭和10年ごろ)。

第二章 イクサがやってくる

《解説》十五年戦争と沖縄

出征兵士の見送り風景(那覇港)。

軍隊への入営を見送る(平良市)。

日中戦争ぼっ発によって多くの若者が戦地へ応召した。浦添市出身兵士の壮行会記念写真。

県立三中生徒の組み体操風景(昭和15年)

全ての学校に御真影奉安殿(天皇陛下の写真を飾った建物)があった。
昭和8年、奉安殿工事の奉仕作業をする三高女生徒

県立一高女生徒の17里行軍。
学校(那覇安里)から勝連まで往復、午前3時から夜10時まで歩きつづけた(昭和17年)。

県立第一中学校での軍事教練風景

忠魂碑前で出征兵士の武運長久祈願をする与那城村の人たち。

1942(昭和17)年、大日本婦人会、愛国婦人会など婦人諸団体が統合され、
大日本国防婦人会が結成された。貯蓄、生産増強、戦時生活の刷新などを中心に運動を展開した。首里赤田の大日本婦人会の人びと。

1940(昭和15)年には、大政翼賛会沖縄支部ができた。
翼賛壮年団が波之上海岸でT心身の鍛練Uを行なっているところ(昭和17年)。

県立沖縄拓南訓練所が金武村にでき、食糧増産報国隊が結成され、
県下各学校の先生たちもその一翼を担った。写真は金武村で開墾にあたる先生たち。

防空演習も日課となった(昭和19年ごろ)。

軍需品の資材にするため、各家庭にある金属・貴金属類の回収が行なわれた(昭和18年ごろ)。

【証言】 青年学校と軍事教練  安里二郎

第三章 疎開

《解説》県外疎開と北部避難

疎開先に向うため、港に集まった人たち(平良市)

浦添国民学校の疎開学童たち。(昭和20年2月 宮崎県平岩)

疎開先(宮崎県西諸県郡)の学校で勉強する泊国民学校の学童たち。

開墾をする泊国民学校の疎開学童(昭和20年)。

疎開地(熊本県)で故郷沖縄の武運長久を祈願する学童たち(昭和20年)

九州三県疎開先分布図(大分県/宮崎県/熊本県)

【証言】 疎開の記  池宮城美津子

【証言】 食べ物がなかった疎開地  城間健

第四章 海上の悲劇

《解説》遭難船無惨
対馬丸/湖南丸/嘉義丸/台中丸/開城丸/赤城丸

主要戦時遭難船舶状況図

【証言】 漂流記  吉田薫夫

【証言】 帰って来なかった息子  具志川智恵

【証言】 撃沈された嘉義丸に乗って  仲宗根トヨ

遭難船犠牲者名簿

第五章 10・10空襲

《解説》十・十空襲

燃えあがる那覇港の船団と那覇港埠頭の軍需物資

猛火に包まれた那覇港。

船舶も攻撃を受け炎上

10・10空襲被災地図

辻原から見た那覇港

10・10空襲前の那覇市街。

空襲で焼け野原になった那覇市街。

【証言】 沖縄を変えた十・十空襲  山里将林

【証言】 墓地で明かした十・十空襲

第六章 沖縄守備軍と米軍

《解説》沖縄守備軍・第三十二軍

攻撃を受ける前の首里城とその一帯。
この首里城の地下に、日本軍(第32軍)の司令部が置かれていた。

沖縄守備陸・買海軍首脳と第24師団幹部

沖縄防衛日本軍主要部隊編成表

沖縄上陸作戦に向けて大平洋上をすすむ米機動部隊。

沖縄作戦中部大平洋部隊編成表

沖縄作戦遠征米軍部隊編成表

米軍第10軍司令官サイモン・B・バックナー中将(右から2人目)と
米第6海兵師団司令官シェファード少将(左・杖を持っている)。

リッチモンド・ターナー海軍中将

バックナー陸軍中将戦死のあとを継いだスティルウェル大将

米第10軍司令官バックナー中将と戦闘状況を話し合う米第3海兵軍団司令官ガイガー海兵少将。