戦場の住民たち
80余日にわたる住民を巻きこんでの沖縄戦で人々は、いくさの地獄をその眼で見た。そして砲火と、死への恐怖から解放され、壕から陽の当る所に出て目を疑った。山の形が変わっていた。草木は如々く焼き払われ大地は白い粉をふいていた。耕地も道もこね返されて川の流れもその方向をかえていた。形を変えた焼土から何ほどの未来が開けるか、新しい不安に脅えながら、散り散りになった家族を探して、それぞれの戦後の一歩が始まった。
戦場から救出された二人の少女。宜野湾市野嵩。1945年5月
10・10空襲以来、米軍の激しい攻撃を受けて壊滅した那覇市街。崩れ落ちたガレキの山も既に取り払われている。
持てるだけの物を持ち、収容所に向かう一家(1945年4月)
米軍のトラックに乗せられて収容所に向かう人たち(1945年6月)。
波之上神宮の鳥居ごしにみた那覇市の廃虚。
破壊された玉陵(1945年5月)。
廃虚と化した首里城(1945年5月)。
祖先たちの眠る亀甲墓も見るかげもなく…(1945年5月)。
保護されたおばあさん。
たばこを取り出そうとする手も心なしかたよりなげである(1945年4月)。
持てるだけの荷物と山羊を連れて安全地帯にむかう少年たち(1945年5月)。
傷の手当てを受け、レーションを食べた後、タバコを貰って一服するおばあさん(本部半島 1945年5月)。
砂糖キビをかじって飢えをいやす少女(1945年4月)。
アメリカ兵の首にさがった小型カメラをふしぎそうにのぞく少年。
足を負傷し、老人に支えられて収容所にむかう少年(1945年6月)
那覇の波之上国民学校。戦後の一時期、米軍政府が修理して使っていた(1945年7月)。
奥武山(1945年)ガーナムイも生きのびた。
北明治橋。日本軍の手で破壊されたあと、米軍の手で補修架橋された(1945年6月)。
那覇市泊付近(1945年)。
米軍による救出作戦で救け出される人たち。この壕は10mの竪穴の下に1000mの横穴がつづくという大きなもので、中には500人もの住民が避難していたという(1945年6月)
米軍の砲撃で壊滅した読谷山村の集落。中には一家全滅の家も出た(1945年6月)。
米軍は占領した地域のうち軍事上必要な所を金網で囲い基地を作っていった。写真は北谷村。現在、米軍のキャンプ瑞慶覧のあたりである。手前の川は普天間川(1945年5月)
由緒ある比謝橋の隣に米軍は新しい鉄橋を架けた(1945年6月)
激しい戦場となった伊江島はほとんど壊滅。残骸となった伊江中学校校舎と城山。右上の写真は数年後の同じ場所である。
両手にレーションの空缶を持った少女(1945年4月)
コザの仮設軍病院の庭でおかあさんに身体を洗ってもらっている少年(1945年4月)
川べりで洗たくをしている人たち。戦場での緊張がゆるんだひととき(1945年4月)
大地にあけられた艦砲の穴に雨水がたまったところ。T鉄の暴風Uのすさまじさを物語る。首里弁が岳付近であろうか
収容所時代
自然洞窟や墓、ジャングルの中から救けだされた人びとは、アメリカ軍が作った収容所に保護された。そこでは生命びろいをしたことが何よりも嬉しく、米軍の与えてくれる僅かの食糧も、飢えへの不安をふき払ってくれた。日にちがたつにつれて望郷の想いがつのり、空き缶で作った三味線で弾き語るTPW節Uが人びとの肺腑をえぐった。
有刺鉄線で囲まれた捕虜収容所に収容される日本軍の捕虜たち。
金武村屋嘉区にあった屋嘉捕虜収容所。日本軍の捕虜を収容する沖縄最大規模の収容所で、本土出身兵5000人を含む7000人が収容されていた。日本兵、朝鮮兵、沖縄兵を別々に収容するテントが並び、夜になると監視哨のサーチライトで昼のように明るかったという。
米軍政府の仮設収容所風景(石川)。
旧久志村大浦崎の収容所。ここには今帰仁、本部、伊江島などの住民4万人が収容されていた。1945年6月から4か月間、栄養失調とマラリアで多くの命が失われた。
すまいづくりのため集団でカヤを刈って帰る人たち(知念の収容所)。
収容所のテントの中でチュンジー(象棋)に興じる75歳の老人と15歳の少年(1945年6月)。
日本軍の軍人が民間人になりすまして民間人収容所に入っていることが多かった。米軍から収容所民に配られたビラ。
米軍政府の管理下、住民への食糧が配給されている(1945年5月)。
THANCHOU(班長)さんが配給物資を受けとりに集まって来た。
【図表】1945年頃の本島12市と人口・市長
軍作業に出かける前、班長から作業の割り当てと点呼を受ける住民たち(1945年5月)
作業に出ると食糧が貰えた。
作業のあいま、Cレーションをもらって食事をとる人たち(1945年4月)
配給カードで食糧やマッチを貰う女性(1945年5月)。
配給カードを発行してもらう人たち(1945年)。
収容所でイモの配給を受ける人たち。
夏の炎天下、農作業に精を出す女性たち(具志川、塩屋 1945年8月)
畑作業から戻る人たち(1945年)
縄をなう人たち(1945年7月)
食糧自給のため豚を解体している人たち(1945年6月)
馬を止めてジープを通す―交通整理をしている民間人のおまわりさん(田井等市 1945年6月)
農作業に精を出す伊平屋村田名の女性たち(1945年7月)
軍作業の割り当てに集まった人たち(1945年5月 金武小学校)。
山上の米軍部隊に食糧や武器を運ぶためにかり出された捕虜たち。
背中のTCIVUはCivilian、民間人捕虜のこと(1945年8月 国頭村安田)。
青空劇場での演芸会も開かれた。石川の慰安芸能大会に集まった人たちと招待された米軍将校。
混雑する病院。T身体を清潔にすることUを訴えた表示板も当時の衛生状況をよく物語る。
米軍の宮古進駐(海兵隊2000人)が始まった。平良港から上陸する米海兵隊(1945年9月)。
海上に投棄するため、日本軍の武器・弾薬が船に積み込まれた(宮古平良港 1945年9月)。
米軍の指示によって日本軍の武器が洋上投棄されることになった。
石垣港の桟橋で船につみこまれる機関銃(1945年10月)。
1945年12月、八重山の日本兵たちの復員が始まった。
上は石垣港の桟橋で復員兵に訓示する宮崎武之少将(独立混成第45旅団長)。
下は、復員兵と、沖の復員船にダンベイで運ばれる兵士たち。
子どもたちと青空教室
戦争の一番の被害者は何といっても子どもたちだ。抵抗力がないから幼いものほどたくさん死んだ。自分の身にふりかかるものが何であるか知らないだけに余計に悲しい。しかし、戦火がやんで、いち早く元気を取り戻したのも子どもたちだ。子どもたちのために保育所とも学校ともつかぬものがまず出来た。それは放っておくと危険な遊びに夢中になる子どもたちを守る大人たちの知恵でもあった。
収容所へ移動するため、荷物運びを手伝う子どもたち(1945年6月 今帰仁村平敷)
民間人の収容所で、乳を取るために集められた山羊を運ぶ手伝いをしている子どもたち(1945年4月)
ギブ・ミー!チョコレートやガムをくれる米兵に子どもたちは群がった
(1945年5月)
沖縄戦は多くの戦災孤児を生んだ。身寄りのない子どもたちを集めた玉城村百名の孤児院(1949年3月)
米軍の占領地では、一足早く寺小屋式の学校が再開された。籾をついた後の先生と生徒たち(1945年4月)
戦火のやんだ日から生き残った先生たちが木かげや原っぱに子どもたちを集め青空教室を開いた。円陣をつくって遊技に興ずる子どもたち。見ている米兵も思わず手をたたく(1945年5月)
綱引きに興じる高江洲の子どもたち(1945年7月)
コザの収容所に学校ができた。開校式に集まった子どもたちを前に挨拶する米軍政府の少佐(1945年7月)
木陰の授業で、先生の呼びかけに手を上げて答える宜野座の子どもたち(1945年6月)
コザの収容所で先生のオルガンに合わせて歌う女生徒たち(1945年7月)
コザの収容所での学校開校式のプログラム。騎馬戦やダンス、歌などがみえる(1945年7月)。
青空教室で勉強する子どもたち。
元気よく体操に汗を流す。ほとんどの子どもが裸足。
遊び道具もない時代で、これだけのシーソーがあればぜいたくであった。
高江洲初等学校の職員室と先生たち(1945年7月)
手づくりの自動車に乗って遊ぶ子どもたち。軍帽とハロー帽に懐かしさを覚える人も多いはずだ。
高江洲初等学校の授業風景。まだほとんどの子どもたちがノートや鉛筆を持たない時代だった(1945年7月)
復帰への胎動
1945年秋頃から人びとは故郷に帰ることを許され、翌46年には疎開していた人びとの帰還が始まった。そして自分の生まれた土地を踏みしめたとき生きる力の湧き上るのを覚えた。やがて自らの立つ土地を自分の手で耕して働くようになると、ギブミー民族と自らあざける反省や復帰を願う政治的意識も起こりはじめた。
沖縄民政府知事志喜屋孝信と米軍政府副長官クレイグ大佐と軍・民政府のスタッフ
(1946年頃)。
1945年8月20日、沖縄諮詢会が発足した。沖縄の再生復興について軍政府と相談し、民意を代表するための機関の設置について軍政府に答申するための諮問機関で、収容地域から代表者たちの投票によって15人選ばれた。
降りしきる雨の中、市町と議員の選挙で投票に集まった人たち。
1948年の選挙がどうかはっきりしない。
1948年2月1日の戦後初の選挙で選ばれた市長村長と沖縄民政府首脳。
八重山での軍政を伝える米軍布告(石垣町)。
1945年12月の石垣港の桟橋。
戦後のスタートはまず家づくりから始まった。
ありあわせの資材を使って家づくりをする人たち(平安座島 1945年)
激戦地となった首里の復興は、知念地区に収容されていた首里出身者が、首里建設先発隊をつくって市民の受け入れ態勢づくりに取りくむことから始まった。
規格住宅が立ち並んだ与那原。
開校前の沖縄文教学校。教員養成を目的に1946年1月、具志川村田場に設置された。
1946年2月に創立された宜野座高校の生徒と安里源秀校長。
終戦直後の馬小屋教室。学校は、1946年4月に8・4制、1948年3月には日本本土にならって6・3制が採られた。
1945年に設置された沖縄教科書編集所で編集、製作されたガリ版刷り教科書の一部。本土の教科書が入荷する1948年〜1950年頃まで使われた。
キャンプ・桑江にあった米軍政府・軍司令部の建物(1949年11月)。
1947年の八重山第1回メーデーにむけて作られたメーデー旗(青年たちが持ち寄ったボロ布を縫い合わせて作ったもの)。八重山の第1回メーデーは米軍による指導者の逮捕で中止され、このメーデー旗は陽の目をみなかったが、米軍の没収をのがれて東京に渡り、1950年、東京の沖縄青年同盟の手によりメーデー中央会場でへんぽんとひるがえった。
中城村久場崎に上陸する人たち。
夢にまで見た故郷に着き、ほっと胸をなでおろす人たち。
懐かしい故里にやっと上陸したものの、旅の疲れと不安で桟橋に座り込んだ老夫婦。
沖縄に帰り着いてほっとしたものの家族の安否も気がかりだ。上陸第一歩を踏みしめる人たち。
ソバ製造器を使ってソバをつくっているコザ孤児院の職員(1949年3月)。
木を削り、ウェーク(櫂)をつくる漁師(1945年4月)。
バーキやミージョーキー等、竹製品はいくらでも需要があった。自分の手で物を作り、それを売って生活できる時が戻って来た。
海水を釜で沸かして塩をつくる。昔ながらの塩づくりも始まった(石川市)。
焼土を耕して植えた砂糖キビから立派な黒糖も出来るようになった。黒砂糖を作っている人たち(那覇近く)。
売る物は少なかったが、小売店も開店した。米軍占領下の座間味島の小売店(1945年7月)。
平和が戻り、ようやく安心して漁ができるようになった。大漁のカツオを前にした与那国の漁師夫婦(1945年9月)。この久部良港は、このあと密貿易で空前のにぎわいを現出する。
軍作業が始まった。初めの頃は米軍キャンプ内外の草刈りやテントばりなど簡単なものだったが、だんだんと専業化していった。米軍基地工事にかり出され、司令部のコンセット仮兵舎をつくるため、床にコンクリートを流し込む人たち(1945年11月)。
工兵隊で働く沖縄の婦人たちとトゥバイフォーの山。彼女たちの日当は1日30セントと2個のホットミール、それにCレーションの缶詰であった(1945年8月)。
ハワイの沖縄県人から贈られてきた衣服類。
戦後の銀行は1946年5月の沖縄中央銀行の創立に始まる。
1946年、米国の社会救済団体(アジア救済連盟:ララ)が優良種の山羊を船で届け、沖縄の畜産復興のさきがけとなった。ララの沖縄への配給は、医薬品、衣料品、食糧品、学用品、家畜等10余種に及んだ。
バーキを編む人たち。
食糧不足を補うため、畑を耕す子どもたち。
コンセット校舎の並ぶ那覇中学校。現在のバスターミナルの所に那覇中学校があった。
那覇港には日本軍の輸送船が沈んだままだった。対岸は垣花(1945年6月)
1949年末、自転車と人力車を組み合わせた「輪タク」が出現した。交通機関が完備されなかった当時のことで大モテだったが、タクシー企業のできた1952年頃からは見向きもされなくなってしまった。
豆腐を作るため、石臼で大豆を摺っている女性たち。終戦直後の平安座島の風景。
伊佐浜には沖縄戦で戦死した米軍兵士の共同墓地があった。(1945年7月)
泡瀬に建設中の米軍の飛行場。
現在、この一帯は国体会場として整備されている(1945年7月)。
米軍払い下げのGMC2トン半トラックや日本製トラックにホロをかけ、客席用の椅子をとりつけ、後部に昇降用のハシゴをつけた合同バス。1947年8月、民政府が県民の足の確保のために20台でスタートさせた。しかしそれでも足の悩みを緩和させるには遠く及ばなかった。
1949年、本物のバスと消防ポンプ車が輸入された。
この写真はお披露目を兼ねた祝賀会の一コマ。
新聞の発行
「ウルマ新報」第4号
「沖縄タイムス」創刊号。
1946年9月、「うるま新報」は、島清にかわって瀬長亀次郎が社長に就任した。同紙は間もなく無料配付から販売制にふみ切り、企業としてスタートした。
写真は瀬長亀次郎社長時代のスタッフ。
世情も落ち着くにつれ、文化的な催しも開かれるようになった。学校での作品展示会の模様。
諮詢会主催の戦後初の琉舞大会(クリスマス祝賀演芸大会)で「かぎやで風節」を踊る島袋光裕(石川 城前小学校 1945年12月)。
絵の展覧会も開かれるようになった。
戦争が終わり、島に戻ってきた人々の歓迎の演芸会の一コマ。
終戦直後の平安座島(1945年8月)。
宜野湾村大山の移動1周年記念の演芸会の一コマ(1948年)。