厳しさを増す 米軍政下で
1950年、朝鮮戦争を機に米軍の沖縄政策はT忘れられた島UからT大平洋の要石Uへと転換し、米軍の緊張はそのまま沖縄の人々の間に伝わり、いやが上にも政治意識を刺激することになった。住民の利益に反する占領政策の最たる軍用地問題が起こり、占領者と被占領者との激しい七年に渡る闘いが繰り広げられた。
1950年9月、群島知事選挙が行なわれ、平良辰雄が松岡政保、瀬長亀次郎を制して当選した。写真左上は場所は確かではないが、山原の投票所風景、左下は同じく投票風景。
琉球大学のグラウンドで行なわれた知事就任式で当選証明書を受けとる平良辰雄(1950年11月)。この選挙を前後に戦後の政党結成の気運が盛りあがり、平良辰雄を委員長に社大党(社会大衆党)が結成され、松岡政保を擁した民主同盟は解党して共和党を結成した。
桑江(北谷村)の軍政本部でT日琉親善日Uの布告に当り沖縄側代表に挨拶するシーツ少将。シーツ少将は1949年10月に軍政長官に就任し軍政機構の改革に着手した。この頃からT忘れられた島U沖縄は復興の軌道に乗り始めた。シーツ少将の就任は一年と短かかったが、その施政はTシーツ善政Uと呼ばれ、住民の信望を集めた。
1951年4月、琉球臨時中央政府が設立され、比嘉秀平が主席に任命された。アーニパィル劇場で行なわれた就任式でビートラー民政副長官から確認証を受けとる比嘉主席。
左側は民政官ルイス准将。
1952年3月には第1回立法院議員の選挙が行なわれた。琉球大学で行なわれた立法院議員就任式での新しい議員たち。
1952年4月、琉球政府が発足し、初代主席に比嘉秀平氏が任命された。琉球政府は形の上では米国の三権分立制度をとっていたが、立法院議員が公選される以外、主席も上訴裁判事も任命制であるなど多くの制約があった。写真下は1957年頃の立法院内部。
歴代主席・県知事
1953年1月、沖縄教職員会、沖青協など23団体が参加して沖縄諸島祖国復帰期成会が結成された。住民の復帰への願いを繁栄したもので、署名運動など展開したが民政府の露骨な弾圧で運動は停滞を余儀なくされた。写真は第2回総決起大会(1953年8月)。
1954年9月、米民政府は退去命令を出した奄美大島出身者2名の隠匿の容疑などで瀬長亀次郎人民党委員長ら20数名を逮捕し弁護士抜きの暗黒裁判を行なった(人民党事件)。この事件で懲役刑を受け約1年半の獄中生活を送った瀬長は、1956年4月9日、沖縄刑務所を出所、支持者たちのバンザイに迎えられた。
1950年代前半の米民政府の反共攻撃は激しく、とくに沖縄人民党に集中した。
朝日報道 1955年1月13日、『朝日新聞』に「米軍のT沖縄民政Uを衝く」という特集記事が載った。この記事は、米施政権下の沖縄で、米軍による農地の強制借上、労賃の人種差別、人民党弾圧、言論弾圧などが起こっていることを初めて日本国内外に知らせるものであった。それまで沖縄問題は、一部の人々の必死の努力にもかかわらず断片的にしか伝わらなかったが、この記事をきっかけに沖縄問題は大きく注目を浴び、新しい局面を開くようになった。
1956年12月、島ぐるみ闘争のさなか、那覇市長選で瀬長亀次郎が当選した。T反米の闘士U瀬長市長の出現に米軍は驚き、補助金や融資のストップ、預金の凍結など様々な手段で圧迫した。しかしそれに失敗すると翌年米軍は市議会の反瀬長派と組んで追放を目論んだが失敗、ついに布令で市町村選挙法、市町村自治体法を改正、瀬長を市長の座から追い出し、被選挙権も奪った。写真は直接市民に市政の現状を訴える瀬長市長。
1957年6月、那覇市議会の市長不信任決議に対抗して瀬長市長が議会を解散した時、人民党、社大党那覇支部、不信任反対派の無所属議員らによって民連(民主主義擁護連絡協議会)が結成された。米軍の強引な瀬長市長追放は市民を刺激することとなり「民連ブーム」が湧きおこった。1958年1月の瀬長市長後任の市長選では民連の兼次佐一が勝利して市長の座についた。写真は市長選で投票する兼次佐一。
郷里八重山を訪れての帰り、ライカムにオグデン少将を表敬訪問した大浜信泉早稲田大学総長。
写真左から稲嶺一郎琉球石油社長、大浜信泉早大総長、比嘉秀平主席、オグデン少将(1955年1月)。
久米島具志川村を視察し、村民の意見を聴く比嘉秀平主席(1954年7月)。
1953年11月、沖縄を訪問したニクソン米副大統領は、「共産主義の脅威がある限り米国は沖縄を保持する」と声明した。
写真は演説するニクソン副大統領と比嘉秀平主席(右側)。
CPと呼ばれていた民警察は群島政府時代に正式な行政機関となった。カーキ色の日本陸軍の軍服まがいの服に肩章をつけた民警察がビートラー民政副長官の謁見を受けているところ(1951年12月)。写真左は、当時の婦人警官。
第2回メーデー。立法院前の広場に集まった人たち(1953年5月1日)。Tメーデーはマルクスの誕生日で参加者は共産主義者とみなすUと民政府が圧迫したいわゆるTマルクスメーデーUの前年である。
1958年9月21日、B円経済からドル経済にかわった。11月末日までB円とドルの交換が続いた。交換金額は359万ドル、B円13億円に達した。写真は当時のドル交換所風景。
1957年3月、レムニッツアー民政長官の招きで、日本本土の政財界12名の代表団が沖縄視察のために来島した。写真は立法院を訪れた高岡大輔団長ら代表団。
1952年、食糧自給政策の一環として本格的な八重山開拓移住が始まった。8月の桴海地区への入植を皮切りに、1957年6月まで、裏石垣の海岸線に沿って続々と新村が建設された。道もなく、ピーカジ(台風)やマラリアと闘いながらの苦難の開拓だった。上は1956年頃の野底集落のスナップ。左は開墾風景。
T三重苦の聖女Uヘレン・ケラー女史(左)が来島し、盲学校の子供たちを慰めた。右側は付き添いのポリー・トンプソンさん(1955年5月27日)
1950年代の中頃から遺骨収集が本格的に始まり、各地に慰霊の塔の建立が続いた。写真上はひめゆりの塔の前で花を捧げる遺族たち。
魂魄の塔。1950年代後半の写真である。
1959年6月30日朝、石川市宮森小学校に演習中の米軍ジェット機が墜落し、死者17(児童11)人、負傷者210人、住家17棟・公民館1棟・小学校3教室を全焼する大惨事となった。左は墜落現場、下は手当てを受ける負傷した子ども。
拡がりいく基地
北中城村石平にあった米軍司令部(フォート・バクナー)。ここは沖縄の米軍首脳部がつめている。いわゆる米軍の沖縄支配の心臓部であった。(1953年頃)。
Keystone of Pacific(大平洋の要石)―沖縄の極東での戦略的重要性がクローズアップされ、基地は年ごとに拡大化されていった。普天間の通称でいご通りを進軍する米軍。
米軍で働くことを軍作業といった。写真左のガードも、右のPXの店員もよく知られた軍作業の一つだった。
集落の中で一休みする米軍戦車を見にかけつけた学校帰りの子どもたち(1953年1月)
1950年から53年にかけて沖縄は空前の軍工事ブームにわいた。1951年には5300万ドルもの軍工事が発注され、日本本土の土建業者をはじめ地元業者、米国、フィリピンの業者が沖縄全土で基地建設・道路工事に取り組んだ。この軍工事ブームは戦後沖縄経済復興の起爆剤の役目も果した。写真は工事契約書にサインする清水建設社長(中央)。1951年8月。
完成した米軍の住宅地の一つ、マチナトハウジングエリア。手前の道路は1号線。この頃から米軍基地は、住宅とか教育・娯楽施設といった非軍事的施設も完備し特異な基地コミュニティを形成していく(1951年)。
土地の収穫はじまる
1950年代初めの頃の伊江島真謝区。1954年6月20日、4戸の立ち退きを皮切りに米軍の土地建設強制接収で激しく揺れ動くことになる。
武装米兵の監視下で強制立ちのきを受ける農家(1955年5月)。
伊江島の土地闘争
1956年6月に発表されたプライス勧告は、住民の四原則(土地を守る四原則)を完全に踏みにじるものであった。これをきっかけに沖縄は、「四原則貫徹」を合言葉に、島ぐるみの大衆運動が燃えがった。
同月第2回四原則貫徹県民大会が行なわれた那覇(写真上)とコザ(写真下)では夜になってそれぞれ数万人の住民が集まり、史上はじめての大集会となった。
米国防省での軍用地問題解決第二次渡米代表団の一行、1958年6月26日。
発展への息吹も逞しく
収穫したパインアップルを缶詰工場に運んで来た農夫。戦後沖縄のパイン生産は1950年代半ばから急増しはじめ、1960年代後半になると砂糖と並んで二大移出品にまで成長する。
那覇市近郊の製糖工場(1952年4月)。沖縄戦で製糖施設、蔗園は壊滅状態となっていたが、1950年には<糖業復興計画>が策定され、南部に製糖会社が出来たのを皮切りに県内各地に黒糖・分蜜糖工場が出来るようになり、戦後の復興がはじまった。
大豆の殻たたき。このクルマンボウの使い方がなかなかむずかしいのである。1950年代には、こんな風景が各地で見られた。
薪作り。電化時代の現代とちがい、1950年代、薪はまだ燃料の主役であった。山原でよく見かけた風景である。
上江洲製帽工場でパナマ帽(アダン葉帽子)づくりに余念のない女性たち。この製帽工場では1951年にアメリカの貿易業者と36万個のパナマ帽子の売買契約が交わされたという。
与那原あたりの海岸であろうか。まだ戦争中の沈船の残る海ぞいでサバニ造りに汗を流す家族(1950年代)。
1950年代、イルカの捕獲に始まった戦後の捕鯨は1957年から名護漁協が本格的に操業を始め、民間二社も加えて1958年には捕獲量はピークに達した(6136トン)。捕鯨業そのものが消滅した今、このクジラの解体場の写真は極めて珍しいものの一つである。
壺屋風景。1945年11月、陶器・瓦製造の名目で103人の先遣隊が壺屋に移動して那覇市の復興が始まったように、製陶の復興は比較的早かった。
ガラス工場。割れ瓶やガラスの破片を原料とした沖縄独特の手作りガラスは戦後の所産。1952年に事業所が開設して出発した。
畳屋さん。
バケツ工場。
泡瀬の塩田と製塩工場。200年の歴史を持つ泡瀬の塩田も戦火で荒れたが、1946年には塩業組合、沖縄製塩が設立されて復興。1955年には県内総需要の75%をまかなった。
製塩工場。1972年に塩専売法が適用され泡瀬の塩田も製造を停止した。
首里の具志堅味噌醤油合名会社(1951年5月)。戦後県内の味噌醤油製造事業は他の製造事業にさきがけて再開されたが、常に移入品の攻勢にあうこととなった。
コンクリートブロック製造工場(1953年)。
牧港のコンクリートパイプ製造工場。
馬ならぬ山羊の力でワラ縄をなっている人たち。戦後沖縄ならではのユーモラスな光景である。
国際通りのTヨイトマケU。琉球銀行壺屋支点の建築風景である(1955年)。
トラバーチン切り出し風景(1959年9月)。勝連の平敷屋で切り出されたこのトラバーチンは、1964年の東京オリンピック会場の建築に使われた。
完成した牧港火力発電所(1953年9月)。ここで発電された電力は、琉球電力公社を通じて米軍と民営の5つの配電会社(松岡・沖縄・中央・比謝川・名護)に供給された。
スクラップブーム 写真右は海中から飛行機の残骸をひきあげる人たち(1954年3月)。左は船づみされるスクラップ。1950年から57年にかけて空前のスクラップブームとなった。1956年には鉄・非金属の輸出額は砂糖を抜いてトップになるほど。
ネコも杓子もスクラップ、スクラップ。大は海中の軍艦から小は薬莢まで主婦や子供までがクワをふるう姿が各地で見られた。戦争で荒廃した宮古神社の境内もスクラップをあさる人の姿。
新しい自動式電話の開通式で説明を受ける志喜屋孝信知事とそのスタッフ(1950年3月)。
戦後沖縄の電話は、1945年12月25日、石川市と越来市を結ぶ市外線でで始まった。
米軍の払下げ資材と民間に散在していた電話機を収集して行なったものであった。
翌1946年7月には沖縄民政府各部門間の交換が開始され、以後各地で交換業務が開始された。1959年5月には琉球電信電話公社が出来るが、その頃の加入者数は5,000人余だったという。
一方、1952年には、日本、米国、その他各地との無線電話も開通されるようになり、写真右のような風景も出現するようになった。
沖縄に日の丸一番機がやって来た。日本航空は1954年、沖縄線を開設、2月5日、乗客を乗せて初の日航機が東京から那覇に着いた。ダクラスDC-6B型、60人乗り、東京―那覇間週2回の運行だった。
1956年6月、那覇―宮古―八重山間に初めて飛行機が飛んだ。琉球航空運輸がCAT航空の飛行機をチャーターして運行を始めたもので、週3便、事故を心配して利用者も少なかったという。写真は畑の真中の石垣飛行場に着いた第1便を農夫も手を休めて見入っているところである。
よみがえる伝統
戦争の傷も癒えると、人々は潤いを求めるようになった。町や村に伝わる行事が復活し、それがまた、人と人との絆を深め、生きる活力となっていった。闘牛に、綱引きにエイサーに、人々はあらためて生命を燃やした。
人びとの生活も落ち着いてくると、伝統の闘牛大会も始まった。優勝した牛の堂々野凱旋。
1950年代の与那原の大綱引き風景。カヌチの差し込まれる前の緊張の時。
演芸大会につめかけた群衆。娯楽に人々が飢えていた時代、1950年代初め頃の石川あたりの光景である。
辻の旧二十日まつりの特設ステージで踊るウマメーサー(馬舞者)。
石川の新興劇場で演芸会が行なわれている。婦人会の踊りの行列に、招待された老人たちが舞台の上から暖かな視線を送る。
復元前(1957年に復元)の園比屋武御嶽石門。
首里当蔵町の元師範学校体育館跡にあったペルリ記念館(琉球政府立博物館別館)。1953年、ペリー来琉百年を記念してオグデン副長官から贈られたものであった。
琉球政府立博物館には沖縄戦で破壊された円覚寺の放生橋の匂欄が保存されていた。
沖縄戦で姿を消していた守礼門が1958年、復元された。写真上は、復元された守礼門、右はお祓いを受ける守礼門御用材、下は、復元工事風景。
アメリカ・オキナワ
コザの米琉親善行事のパレード風景(1950年代後半)。米国と沖縄の双方の思惑の中で琉米親善(始めの頃は米琉親善といった)は進められていった。
久場崎の米軍サービスクラブで米兵と踊るオキナワンガールたち(1952年5月)。
崇元寺跡にあった那覇琉米文化会館(1956年)。琉米文化会館は地域の文化活動を進め、琉米間の親善を促進することで住民の間に米民政府の政策を浸透させる目的で作られたもの。那覇の他に石川市、名護市、平良市、石垣市にあった。
コザの琉米親善センター(1959年12月)。琉米文化会館と同じような機能をもつ自治体の文化施設で、コザ市、糸満市、座間味村の三ケ所にあった。
喜劇「八月十五夜の茶屋」。嘉手納ラックランド劇場での初演風景。1954年、米軍は米琉親善にと双方から演技者を集めて上演を計画したが作品にあらわれた沖縄観が屈辱的だと沖縄側からの反発をかい、那覇公演がとりやめとなったいわくつきの演劇だった。
映画「ひめゆりの塔」の沖縄興業は1953年の夏。太宝劇場と大洋劇場で封切りされたあと県下各地で上映され、大ヒットとなった。
東映の「ひめゆりの塔」につづいて松竹は、鉄血勤皇隊を描いた「沖縄健児隊」を製作、反響を呼んだ。この興業収入の一部はT健児の像U建立に当てられた。
1953年2月、KSARが開局した。写真は琉大構内にあったKSARの建物。1958年には琉球放送がこの全施設を買収し、戦後初の民間放送となった。
米国に向けて出発する留学生たち(1950年代初期)。米留学制度は1949年7月、米陸軍省によって開始された。1972年までに1045人が留学し、戦後沖縄の教育・学問の発展に大きな役割を果した。
教育・文化 ―創造を求めて―
琉球大学創設
1950年、沖縄で最初の、そして唯一の総合大学として琉球大学が米軍政府によって創設された。米軍布令によって創設された。米軍布令によって設立・運営された大学としてさまざまな問題を抱えながらも、大学教育の普及、学問の振興、沖縄の人材養成に大きな貢献をなした。
琉球大学開学式。左側、初代学長志喜屋孝信。
1950年代前半の琉球大学キャンパス。
キャンプクワエで民政副長官ビートラー少将と語る
左から志喜屋孝信(初代学長)、呉屋朝賞(第2代学長)、安里源秀(副学長)。
1950年代後半の琉大本館。
開学当初の授業風景(1951年)。
沖縄戦災校舎復興期成会の屋良朝苗会長、喜屋武真栄らが校舎の実態と復興を訴えて全国行脚した結果集まった募金は1955年、T愛の教具Uとして沖縄に届いた。写真右上は陸上げされる大陣、右下は愛の教具。上はとび箱が贈られて大喜びの西原小中学校の子どもたち。
1952年以降、私的な場所での日の丸掲揚が許されるようになったあと、学校では新年のうたが歌われるようになった。
この写真は1953年ごろのある小学校での「一月一日の歌」の練習風景である。
1950年代の学校校舎はまだひどい状況だった。右上は宮森小学校。右下は場所は不明だが、葦ぶき校舎・コンセット校舎・コンクリート校舎が並んで、時代を物語る。左上は嘉手納小学校、左下は当時珍しくもなかったスシ詰め教室。
生徒総出で整地作業をしている首里中学校(1950年頃)。
放浪・窮乏生活の中で珠玉の詩を書き続けた詩人山之内貘(1903-1963)が、1958年10月、34年ぶりに沖縄に帰って来た。画家末吉安久(写真右)らの熱狂的な出迎えを受ける山之内貘。
比嘉春潮歓迎会に集まった人たち。歴史研究者比嘉春潮は、戦後いち早く沖縄人連盟創立に参画、機関誌「自由沖縄」を発行更に金城朝永らと共に沖縄文化協会を作り、機関誌「沖縄文化」を発行、戦後の沖縄文化研究の基礎を作った。
戦後途絶していた本土とのスポーツの交流は、1952年、第七回国民体育大会(東北三県大会)への選手役員十一人によるオブザーバー参加に始まる。翌年の第八回大会からは沖縄県として正式参加した。写真は第七回大会(仙台会場で)で入場行進する選手団。
上は甲子園出場記念碑の除幕式での首里高校ナイン。彼らが持ち帰った甲子園の土は検疫法に引っかかり海に捨てさせられた。いわゆる「甲子園の土」事件として全国に知られた。
左は1958年8月8日、夏の全国高校野球大会開会式で選手宣誓をする首里高校仲宗根主将。この大会で沖縄代表が始めて甲子園の土を踏んだ。
復興から発展へ―50年代町の様子・村の様子―
那覇
那覇署前交差点。第1庁舎と立法院議事堂が見える(1957年2月)。
那覇署前交差点。那覇警察署の建物は、戦前からの建物を修復して使われていた(1958年)。
1953年頃の那覇署前交差点。右側のビルはデパート・リウボウ。松山一帯にはまだ米軍の基地があった。
1954年頃の国際通り。
国際劇場。1947年12月、米軍政府がアーニー・パイル劇場として認可した民間の映画館。1954年頃と1950年頃の写真。この国際劇場によってT国際通りUといわれる。
那覇のメインストーリーとして整備された国際通り(1955年8月)。
大宝館。映画見学の子ども達が並んでいる。その後、この場所には沖縄三越が建ち、映画館も沖縄東宝劇場と名を変えた(映画館は現在はない)。
国際通り三景ー松尾大通りの改修工事(1952年) その2 改修工事直後の松尾大通り。この頃から国際通りと呼ばれるようになった(1953年5月)。
1959年、本土より6年遅れて沖縄でもテレビ放送が始まった。電器店の前には連日大勢の市民が集まってT時代の先端Uを味わった。
国際通りでサシバを売っている物売りと珍しげに見る米兵。
1954年頃の波上宮と護国寺。
護国寺(1954年)。
戦争でこわれた波之上のプールもよみがえり、河童たちの歓声も聞かれるようになった(1953年頃)。
映画「8月15夜の茶屋」のモデルになった辻の料亭松乃下。
Tea House(料亭)で野球拳にに興ずる米水兵たち。
奥武山の鳥居(1950年代初め)。
明治橋。1953年にコンクリート造りに改修された。橋長101m、幅員21.1m。
楚辺、二中前一帯。左の学校は那覇高校、小高い丘は城岳遊園地(1953年5月)。
商売道具を乗せた車を犬に引かせて、平和通りを行く傘の修理屋さん。
1953年に開設された与儀の農連中央市場。生産者と消費者が直接取り引きを行なう相対売りの市場として市民に親しまれている。
1956年、改修直後の沖映本館。手前の川はガーブ川。
沖映で行なわれた沖縄朝日新聞社主催のミス沖縄コンテスト(1953年頃)。
写真右は那覇市上之屋の琉球気象台の観測塔(1957年2月)。上は1955年にできた主席公舎(現在の知事公舎)。下は1950年代初め頃の水上店鋪。平和通りと平行するガーブ川に杭を打ち込み、その上に板をはっただけの簡単な店構えであった。
泊高橋から中の橋方向を見る(1958年)。
泊にあった1950年代中頃の琉球造船所。
安謝漁港とスクラップ置場(1950年代中頃)。
尚家の邸宅「中城御殿」跡の那覇市役所首里支所と首里バスの車庫(1956年)。
1950年代中頃の首里教会。
クリスマスが近づくと、日曜教会に通う子どもたちの数がにわかに増え出すという現象も楽しいものだ。セブンスデー・アドベンチスト首里教会(1951年12月)。
南部
糸満大通りでの大綱引き(1950代末)。
1950年代中頃の糸満漁港。
ひめゆりの塔前の花売りの女性たち(1950年代中頃)。
上は糸満の農村風景(1950年代前半)。右は1950年代の黎明の塔。
流行のフラフープで遊ぶ与那原の子どもたち。
豊見城村与根の塩田(1957年頃)。
1957年頃の東風平三差路。
謝花昇記念館と記念碑。手前は東風平小学校の運動場(1956年頃)。
大里村の湧水風景。
知念半島の夏景色。
与那原海岸で遊ぶ子どもたち。
1956年頃の馬天港。
三和村のT足Uオート三輪車。糸満を起点にして20余台の三輪車が三和村内を走っていた。
座間味村座間味の集落(1953年5月)。
中部
西原温泉。1957年、ボーリング中に温水がふき出し、調査の結果、アルカリ性の温泉であることがわかり、沖縄では数少ない温泉の一つとして施設が整えられた。写真は1958年末。
牧港の1号線。牧港から城間にかけては米人経営の企業が多く、外商地帯と呼ばれていた。
1956年の普天間神宮と神宮寺。
1950年代後半の宜野湾村伊佐三叉路。真っすぐのびるのが1号線(現国道58号線)、右に折れて普天間へと続く。
戦前の松並木の残る普天間大通り。コンクリート造り建物は野嵩高校(現普天間高校)の校舎。
野嵩の高台から見た普天間の市街地(1956年)。
山田画伯と平和記念像
嘉手納沖映の屋上から見た嘉手納ロータリー(1957年9月)。
ゴヤ十字路、中の町方面を望む(1956年頃)。
1956年頃のゴヤゲート通り。戦前の製糖工場の煙突が残っていた。
1956年頃のBC通り(センター通り)。現在の中央パークアベニュー。
1958年頃のゴヤ十字路。
ゲート通りの貸スクーター屋さん(1956年)。
Aサイン店の水質検査をしている米軍公衆衛生担当の係官と保健所の職員(1956年1月)。SサインとはApprovedの頭文字で1953年から実施され、食品衛生や風紀、特に米兵への性病感染をおそれ、厳しく検査された。Aサインの赤はレストラン、青はバーやキャバレー、黒は加工食品関係と区分されていた。
1950年代のAサインバーのカウンター。
上は1950年代のAサインバー。米兵は酒を飲む度にキャッシュで払う。こんなところにも文化の違いを見ることになった。左は1950年代初期のコザのビアホール。
1956年頃の越来ダム。現在、越来ダムの回りには子どもの国がある。
交通整理のおまわりさん。1950年代初期のコザ十字路。
道端にゴザを敷き、トランプ遊びに興じる子どもたち。
1950年代中頃のコザ十字路風景。
1950年代末のコザ十字路。
1957年頃の十字路商店街。現在のコザ銀天街。
何故か子どもたちは綿あめが好きだ。薄桃色の雲のかたまりに子供たちが集まる。
1950年代中頃の具志川村安慶名十字路。
1950年代末の具志川村安慶名大通り。
水不足のため、ホワイトビーチから出動した米軍の給水車にバケツを持って集まった人々。島はいつも水不足に悩まされた。与那城村西原(1956年8月)。
1956年頃の勝連村津堅島の集落。沖縄戦では日本軍の基地があり、米軍の艦砲射撃で殆どの家が焼けた。
北部
1958年頃の名護漁港。今ではここも埋め立てられてしまった。
名護あたりの集落風景。
1950年代末の羽地ターブックヮ。
脱穀する少年。
薪を切る農夫。石油コンロが出現する1950年代中頃までは薪は家庭燃料の主役であった。
1956年頃の源河。源河川は鮎でゆうめいだった。
1956年頃の辺戸名。
1956年頃の今帰仁村仲宗根。
車掌さんの手伝いでバナナをバスに運び込む農家のおばさん。
1950年代末の羽地内海。屋我地大橋は1960年のチリ津波で破壊され、1963年に再びかけられた。手前の小学校はチリ津波を契機に移転する前の真喜屋小学校。
タキギ拾いの子どもたち。この頃の子どもたちは家庭の大切な労働の担い手であった。子どもたちは健気でくったくなく、仕事の手伝いを通して生きる知恵も学んだ。
1950年代の伊江島タッチューと伊江島の集落。
先島
八重山石垣の路地風景。種豚を追う老人が行く。
八重山石垣島の田園風景。島産の小型馬の背に揺られて畑へ向かう農夫。
1956年頃の石垣の通称「桟橋通り」の家並み。
1956年頃の石垣港桟橋。1965年には新しい石垣港が出来る。
石垣の市場の風景。