第1回  もうひとつの「さとうきび畑」in 恩納

先日TBSテレビで放送されたドラマ「さとうきび畑」をご覧になった方もたくさんいらっしゃると思います。
かく言う私も号泣して、翌朝凄い顔で出社しました。

家族を軸にそれぞれの戦争を描いていたこの物語の最も印象深いエピソードの一つに
学徒隊の一員として戦死した次男の物語がありました。

まだ少年の面影の残る息子を戦地へ送り出す家族。
御国のために命を散らす覚悟で戦う決意を見せる息子に
「生きる」ことの大切さを話す父。

少年は家族と離れ、戦い、
最期は、爆弾を抱えて壕を囲んだ米軍に走って突っ込み、機関銃で蜂の巣にされて死んでしまう。

恩納村にもそうした家族の死を抱えて生きてきた人たちがいました。

摩文仁に散った息子  恩納 津嘉山朝信 の戦時物語

保護者の承諾書に捺印

 私の長男「功」が、「二十六日には、軍の通信隊に入隊することになったから、保護者「親」の承諾書を貰いに来た」と、突然帰宅したのは、昭和二十年三月二十四日だったと覚えています。「功」は未成年のため、自ら直接、軍へ入隊する意志を決定する事は、許されなかったから保護者「親」の承諾が必要だったのです。進学する中学校は、自宅からも近い県立第三中学校があったにもかかわらず、那覇の県立第二中学校を希望して入学していました。昭和十九年十月十日の空襲で校舎が全焼したので、授業は不可能となり、着の身着のままの姿で帰宅していました。
 間もなく、帰校命令を受けて、学校に戻っていきました。さいわい、同級生の家が焼け残っていたので、その家に下宿をさせてもらっていました。授業の時間は無く、毎日、学校の焼け跡の整理や軍の陣地構築の作業等に動員され、元気で頑張っていました。
 三月二十四日は、すでに敵の軍艦が沖縄本島の周囲を十重二重にとり囲んでおり、艦砲射撃も始まっておりました。私は、いざというときに備えて、村の鍛冶屋に作らせておいた鉄製の槍を手入れしていました。そこに、息子の突然の帰宅であります。何事が起こったのかと聞くと、「鉄血勤皇隊員として軍に協力し、入隊したいから親の同意が必要だ」ということである。
私は、びっくりして「とにかく、話を聞こう」と座敷に上って、二人で話し合いました。
 村の警防団長をしていた私は、平素から御国への御奉公が国民として最高の義務であると教えてきた責任もあり、一方では、このまま親もとに引き留めたい気も致しました。そのような状況のなかで、息子の一途な気持を拒むことも気がとがめて、
「立派な御奉公を」と一言述べて捺印し、手渡しました。

自転車に乗って我が家を去る息子の後ろ姿

 承諾書を受け取った息子は、「お父さん、有難う」と頭を下げて、次の言葉を残して家を出ました。「孝(弟)は、乳飲み子ではあっても、跡継ぎができたことですし、何の心残りもありません。しっかりやってきます」と力強く述べて、「お父さん、お母さん、お元気で、お幸福に。妹達には、しっかり勉強しろよと、教えて下さい。詳しい話し合いができないのが残念ですが、艦砲射撃もあり、交通機関も全くないので、入隊に遅れては申し訳が立ちませんので、お父さんの自転車を借りて行きます」と言って、私の自転車を持ち出して、乗って行ってしまいました。
 私は、去って行く息子の後姿を、いつまでも見つめていました。

息子の消息を捜し求めて

 沖縄戦も八十余日の激戦のすえ、終戦となり、それぞれの家庭では、肉身の無事を願い、元気な姿で家族のもとへ帰ってくることを祈っていました。
 ところが、元気な姿で家を出た息子(功)は、それっきり、何の消息もなく、あの元気な姿を見ることは有りませんでした。居ても立っても居られなくなった私は、彼方此方と行方を尋ね廻りました。やっと分かったことは、石部隊三五九九部隊通信隊に入隊し、六月二十三日、部隊が解散するまでは、生存していたが、摩文仁の山城部落近辺で敵と遭遇し、戦い、戦死した、ということが分かりました。
 その後、同部隊の生き残りの人の証言をもとに、戦死したと言れわる場所を幾度となく捜し歩きました。息子の遺骨が見つかるのではないか、遺品の一つでも見つかればと思い捜し求めて歩き廻りましたが、とうとう、何の手がかりも得られませんでした。
三十六年が過ぎた今日でも、自転車に乗って家を出て行った姿が、はっきり眼に浮び忘れられません。
(「還らぬ人とともに」より引用)

摩文仁に若き命を散らした弟  南恩納  仲西富子 の戦時物語


 弟・仲西智福は、父仲西智鋭、母カメの長男として大正十四年十二月一日、旧字恩納八二〇一番地で出生。長男であった。
二つ違いの姉富子と姉一人、弟一人の姉弟である。
 弟智福は、従兄たちが県立第三中等学校に在学していたので、第三中等学校へ進学することを望んでいた。ところが、
姉富子は、県立第三高等女学校に在学中であったので、父は、二年おくれて小学校高等科から師範学校への進学を薦めた。
智福は父の薦めのとうり師範学校に合格し、昭和十五年四月入学した。
 智福は、体は小柄であったが頑健で運動に優れ、小学校時代は成績も良かった。将来は、学校の先生として師弟の教育に携わる筈であった。 
 昭和十七年六月五日、日本艦隊大敗にはじまり、日本軍のガダルカナル島撤退開始につづき、アッツ島の日本軍玉砕、
ブーゲンビル島沖海戦、マキン・タワラの日本軍玉砕等、多くの日本軍、空母と航空機の大半を失い、戦局は悪化の一途をたどっていた。そのような中、昭和十八年十二月一日、第一回学徒兵入隊(学徒出陣)となり、同二四日、徴兵適令一年引き下げ実施となった。文部省は、大学・高等専門学校の「軍事教育強化方針」を発表した。
 昭和十九年三月二二日、南西諸島に沖縄守備軍の第三二軍が新設された。同月二九日、政府は、「中学生の勤労動員大綱」を決定、沖縄も緊迫の状況に追い込まれていった。 
 時局柄多くの学友は航空兵に憧れていた。智福もその一人であった。同年五月、学友と共に「特別操縦見習士官」を受験した。
第一次試験(筆記試験)に十五名が合格した。智福も、その一人であった。第二次試験(適正検査)は東京で行われた。
そのうち、二人が合格し、智福は不合格となった。
 交通不便ななか、汽車を乗り継いで鹿児島まで辿り着いた。ところが、沖縄行きの船便がとれずに一ヶ月も鹿児島に逗留する羽目になった。
 昭和十八年師範教育令の改正により、師範学校は、官立の専門学校となり、沖縄師範学校と称した。鹿児島師範学校も同じ官立であったので、手続きをすれば、鹿児島師範学校に編入出来ることになっていた。智福は、沖縄の両親に編入学しても良いかと問い合わしたが、返事は、「帰って来るように」であった。致し方なく沖縄へ帰らざるを得なかった。
 昭和二〇年二月頃、教育実習のため、学友・島袋清(首里弁ヶ岳で戦死)と二人は、恩納国民学校で共に実習に参加した。三月の始め実習を終えて戻っていった。昭和二〇年三月三一日、軍命により、鉄血勤皇隊師範隊を組織し、第三二軍司令部に配属、
斬込隊に編入され、六月二二日、摩文仁方面で戦死した。

聞き取り調査 當眞嗣長

私の戦争体験  字喜瀬武原 外間現弘 の戦時物語
 

 昭和十九年四月、県立第三中学校に入学した私は、制服制帽に身を包み、夢と希望に胸を膨らませ、楽しい中にも厳しい中学生生活を送っていた。
喜瀬武原からは、通学困難なため、名護の民家で下宿をしての通学であった。
 この頃、南方における日本軍の戦況は、悪化の道を辿っていた。五月に入ると、伊江島にも飛行場が建設されるようになり、
各町村から老若男女が建設に徴用され、我が第三中学校からも上級生達が動員されていた。
 同年十月十日、午前七時半頃、突如、米機動部隊から発進した艦載機グラマンによる、沖縄大空襲があり、建設中の伊江島飛行
場や本部町渡久地の港、名護湾に停泊中の艦船も爆撃されて、甚大な被害を受けた。
 私は登校前であったので、午前八時前の消防署のサイレンで敵機の空襲であることを知り、下宿の庭に準備してある天井なしの
防空壕に飛び込んで、下宿の家族と身を潜めていた。
 敵機は、名護湾に停泊している艦船に対して、機銃掃射と爆弾を投下し攻撃していた。
爆弾が破裂する度に、強い衝撃を感じ、生きた心地はしなかった。
 夕刻になって空襲が終ったので、海岸に出てみると、軍艦は炎上し、艦尾は沈んでいた。死亡した兵士は、ボートで陸上へ搬送されていた。その傷ましい姿を見たとき、敵軍に対する怒りが込み上げてきた。
 十・十空襲以後の学校は、正課の授業も変更されることが多くなった。
一・二年生は、食糧増産のため、近隣の名護・羽地・屋部・安和の部落に農作業の応援に動員された。
応援先では、区長さんの指示で出征軍人の家庭に、四・五人ずつ配置され、田草取等に従事した。
 学校における教練の時間も強化され、基本的訓練から軍隊同様な訓練に変わり、
爆雷を抱えて戦車へ跳び込む訓練へと移行した。 
 この様な時でも、一つだけ楽しい事があった。農作業に行った時は、銀飯が食べられる事であった。
日頃の食事は、芋混じりの飯であったので、農作業の応援や、たまの休みに自宅へ帰る日が一番の楽しみであった。
 十・十空襲以後は、敵機(B24等)の飛来が多くなり、米機動部隊が接近しつつある感がした。
 昭和二十年に入ると米艦載機による沖縄本島の攻撃があり、戦況は緊迫の度を増していた。
二月に入ると県下の学徒動員が強化され、第三中学校からも通信等の学徒隊が動員された。
二月頃から学校には、軍が駐留するようになり、教室は、軍の兵舎に当てられたので、
一年生は名護農事試験場の研修室に移転した。
 授業は無くなり、軍への支援活動が主になっていた。朝、担任の先生が出欠をとり、その後は、羽地伊佐川の山麓で、球部隊の陣地壕掘りの作業に従事した。我々に割り当てられた仕事は、壕の二・三〇米奥で掘り出す土石を、カマスの仮モッコで二人一組で運び出すことであった。
芋混じりの辨当で空腹を我慢しながらの作業は辛いものであった。
 三月初旬、配属将校から君達も鉄血勤皇隊として球部隊に入隊するとの達しがあり、
いよいよ戦況が緊迫していることを悟り、身がひき締まるのを感じ、従軍する決意をした。
 両親にも、その旨を説明し、決死隊として行動するので、自分の髪の毛と爪を切って遺品として
あずけて来いとの指示があった。
日曜日に帰宅し、父母兄姉へ入隊することを伝え、髪の毛と爪を封筒に入れて母に渡した。
母も当時の世情を心得ていたので、涙も流さずに受け取ってくれた。
 戦場での武運は、女姉妹の頭髪を、お守りとして携帯していると難を避けられるとの諺があり、
母は、四人姉妹の髪の毛を切り集めて、サラシ布の小袋に入れ、学生帽(戦闘帽)の内側(額側)に縫い込んでくれた。
 父は、別れに際し、六〇円の大金を私に差し出した。
私は、このような大金を持ち歩いた経験がないので、びっくりして、その訳を問うと、
父曰く、若しも何処かで生き延びることがある場合に使い、生き延びて帰って来いとの事であった。
そういう訳で、金は受け取ったものの、その所持方法が心配になった。
 父母には、元気でいて欲しいと挨拶し、その日の午後、名護へ出発した。
 学制改革により、これまでの五年制から四年制に移行するので、三月二十五日は、
五年生と四年生の同時卒業式が行なわれることになった。そのため、二十三日と二十四日は、休校にするから、帰宅し、親との面会をして来い、との達しがあった。
 約一ヶ月振りの帰宅は、家族へ会えることと、銀飯が腹一杯食べられることで二〇キロの道程も足が軽かった。
 我が家では、明日の彼岸祭の準備で姉達が忙しそうに動きまわっていた。
アサギ(別棟)には、糸満から疎開してきた三世代の五人家族が住んでいた。年寄りと子供三人の女世帯であった。おそらく、一家の柱は、軍隊か防衛隊に召集されているのではないかと思われた。
 三月二十三日は、晴天であった。当日は彼岸祭で女達は、朝から忙しく立ちまわっていた。
男達は、朝食を済ますと、家畜の草を苅りに行く準備をしている時であった。突然、東の方から、飛行機の爆音が聞えたかと思うと、四機編隊の無数の飛行機群が北の方へ飛んでいる。「これは、空襲だ、早く火を消しなさい」と大声で叫んだ。台所では、女達が彼岸祭の豆腐づくりをしている時であったが、火を消すと、自家の防空壕に駆け込んだ。
その日は、終日、防空壕に避難し、昼食も壕内で済ました。
幸い、喜瀬武原への攻撃はなく、胸を撫でおろし、夕刻になって
我が家へ帰り、時間遅れの彼岸祭のお供えをして、一日が終った。
 二十四日、二十五日は連続、沖縄本島の空爆があり、防空壕の生活であった。
兄達は、我が喜瀬武原も攻撃されると判断し、廻袋の山中に避難小屋を作ることに決め、早速作業に取りかかった。小屋は、二、三日で出来あがった。家族は、避難小屋へ引っ越し、避難生活が始まった。
 避難小屋へ移ってから五日目の夜だった。山の尾根に上がり、西の海を見ると、伊江島沖から残波岬まで、米艦船が無数に停泊し、沖縄本島は、敵艦船に包囲されていることを知り、びっくりした。
 これでは、名護の学校へ戻ることは無理だと判断した。無理に名護へ出かけても、途中で艦砲射撃に遭い、命を落とすことになりかねないと思い、学校へ戻るのを諦めた。
 空爆は連日続き、恩納岳の上空には、沖の敵艦から照明弾が打ち上げられ、艦砲が撃ち込まれるようになった。日中は、山の小屋に避難し、日が暮れると家に帰り、家畜の飼料を与え、再び小屋へ帰るという日が続いた。
 日々、戦況は悪化の様相を呈していたので、家畜を減らすため、夜間に打ち上げられる恩納岳上空の敵の照明弾の明かりをたよりに、豚を解体し、小屋へ持ち込み、食した。
 四月一日、米軍は、北谷の海岸から上陸したとの情報が入り、みんなの胸に不安が広がっていった。
これまでの民間防衛の訓練では、銃がなければ、竹槍で応戦するように訓練されて来たが、敵の近代兵器の前には抗し難いと判断し、山中に引きこもるしか、なす術はなかった。
 米軍が上陸してから三・四日もすると喜瀬武原にも米兵の姿が現れるようになった。日中は、ジープ二・三台に分乗した斥候兵が山の麓まで来るようになり、不安の日が続いた。この頃からは、朝食を早目に取り、各自におむすびを持たせて、二・三人ずつに分散し、小屋を離れた。尾根の道と谷間は、敵が通るので、尾根と谷間の中間が安全だという兄の指導で、中間のくぼみや、木の茂みに身を潜めることにした。
 四月二十九日(天長節)は、廻袋一帯の山は、昼夜を通して、米軍に包囲され、山中から一歩も出られない状態であった。昼夜を通して機関銃の音が唸り、死ぬ思いであった。
 避難生活が一ヵ月以上も続くと、体も服も不潔になり、衣類の縫い目には、白いシラミが発生し、私達を悩ませた。野菜も不足がちの生活は、栄養状態も悪く、青白い顔になっていた。
 六月十五日頃、護郷隊員であった親戚の従兄が、部隊は、恩納岳で解散になり、ひょっこり、私達の前に姿を現わした。彼は、間もなく高熱を出し、ひどい悪寒におそわれて、皆を心配させた。このまま山に居ると、彼を死に至らせるかもしれないと思い、この際は、山を下り、中川の難民収容所に行くのが得策だと判断し、相談のうえ、山を下りることにした。
 六月二十三日夜、親戚も含めて四〇人余の者が四キロ米の夜道を歩き、遂に中川収容所のナナサクという所に辿り着いた。
 やっと、三ヵ月余の苦しい避難生活から解放され、安全で平和な暮らしを取り戻した。