摩文仁に散った息子 恩納 津嘉山朝信 の戦時物語
保護者の承諾書に捺印
私の長男「功」が、「二十六日には、軍の通信隊に入隊することになったから、保護者「親」の承諾書を貰いに来た」と、突然帰宅したのは、昭和二十年三月二十四日だったと覚えています。「功」は未成年のため、自ら直接、軍へ入隊する意志を決定する事は、許されなかったから保護者「親」の承諾が必要だったのです。進学する中学校は、自宅からも近い県立第三中学校があったにもかかわらず、那覇の県立第二中学校を希望して入学していました。昭和十九年十月十日の空襲で校舎が全焼したので、授業は不可能となり、着の身着のままの姿で帰宅していました。
間もなく、帰校命令を受けて、学校に戻っていきました。さいわい、同級生の家が焼け残っていたので、その家に下宿をさせてもらっていました。授業の時間は無く、毎日、学校の焼け跡の整理や軍の陣地構築の作業等に動員され、元気で頑張っていました。
三月二十四日は、すでに敵の軍艦が沖縄本島の周囲を十重二重にとり囲んでおり、艦砲射撃も始まっておりました。私は、いざというときに備えて、村の鍛冶屋に作らせておいた鉄製の槍を手入れしていました。そこに、息子の突然の帰宅であります。何事が起こったのかと聞くと、「鉄血勤皇隊員として軍に協力し、入隊したいから親の同意が必要だ」ということである。
私は、びっくりして「とにかく、話を聞こう」と座敷に上って、二人で話し合いました。
村の警防団長をしていた私は、平素から御国への御奉公が国民として最高の義務であると教えてきた責任もあり、一方では、このまま親もとに引き留めたい気も致しました。そのような状況のなかで、息子の一途な気持を拒むことも気がとがめて、
「立派な御奉公を」と一言述べて捺印し、手渡しました。
自転車に乗って我が家を去る息子の後ろ姿
承諾書を受け取った息子は、「お父さん、有難う」と頭を下げて、次の言葉を残して家を出ました。「孝(弟)は、乳飲み子ではあっても、跡継ぎができたことですし、何の心残りもありません。しっかりやってきます」と力強く述べて、「お父さん、お母さん、お元気で、お幸福に。妹達には、しっかり勉強しろよと、教えて下さい。詳しい話し合いができないのが残念ですが、艦砲射撃もあり、交通機関も全くないので、入隊に遅れては申し訳が立ちませんので、お父さんの自転車を借りて行きます」と言って、私の自転車を持ち出して、乗って行ってしまいました。
私は、去って行く息子の後姿を、いつまでも見つめていました。
息子の消息を捜し求めて
沖縄戦も八十余日の激戦のすえ、終戦となり、それぞれの家庭では、肉身の無事を願い、元気な姿で家族のもとへ帰ってくることを祈っていました。
ところが、元気な姿で家を出た息子(功)は、それっきり、何の消息もなく、あの元気な姿を見ることは有りませんでした。居ても立っても居られなくなった私は、彼方此方と行方を尋ね廻りました。やっと分かったことは、石部隊三五九九部隊通信隊に入隊し、六月二十三日、部隊が解散するまでは、生存していたが、摩文仁の山城部落近辺で敵と遭遇し、戦い、戦死した、ということが分かりました。
その後、同部隊の生き残りの人の証言をもとに、戦死したと言れわる場所を幾度となく捜し歩きました。息子の遺骨が見つかるのではないか、遺品の一つでも見つかればと思い捜し求めて歩き廻りましたが、とうとう、何の手がかりも得られませんでした。
三十六年が過ぎた今日でも、自転車に乗って家を出て行った姿が、はっきり眼に浮び忘れられません。
(「還らぬ人とともに」より引用)