弟又吉進康の消息を尋ねて 姉 大城シズ
(資料提供・恩納村字恩納二八二三番地・又吉進昭)
はじめに
兄進康は、昭和十九年の秋、恩納村山田国民学校に駐留していた北郷格郎大佐の率いる
山部隊・歩兵第三二聯隊に新兵として入隊した。兄は大正十三年十二月一日生であるから、
徴兵適齢一年引き下げによる十九歳の現地入隊であった。所属した部隊は、
山第三四七五部隊第二大隊である。
山部隊は、雨宮巽中将を師団長とする第二四師団の通称である。山部隊は、
風雲急を告げる沖縄へ、沖縄守備軍・第三二軍の基幹部隊として編入され、
昭和十九年八月、満州から配備された部隊であった。那覇に上陸したのは、
同年八月十日であった。その中の歩兵第三二聯隊が山田国民学校に聯隊本部を置き、
恩納村内に散在して配備されていた。隊員の殆どが北海道出身者で占めていた。
第二四師団は、昭和十九年十二月十日まで師団司令部を嘉手納農林学校に
置いて中頭の守備にあたっていた。昭和十九年十二月十一日から昭和二十年四月十五日までは、
島尻郡高嶺村与座に本拠地を移した。同年四月十五日以降は、首里戦線に参加している。
兄進康は、山田国民学校の聯隊本部で新兵教育を受け、首里戦線に参加、
五月四日二三時三五分、浦添市前田の一三五高地で戦死した。
一方、兄進康が山田の聯隊本部に勤務しているとき、母カマドと姉シズが同本部を訪れ、
幾度か進康に面会したことがあった。その都度、父盛得が釣った魚を持参して進康の上官に贈り、
上官等とは顔見知りになっていた。
米軍が上陸すると、一家は恩納岳に避難した。やがて米軍に捕まり石川に収容された。
その頃、南部方面の戦闘で捕虜になった日本兵は、ぞくぞくと屋嘉の収容所に送られていた。
両親と姉シズは、若しや進康も元気で屋嘉の捕虜収容所に収容されているかも知れないと
思うようになった。姉シズは、その頃から弟進康の消息を尋ねるのに懸命であった。
姉シズは、石川に収容されてからは、家族を養うため、米軍部隊の洗濯作業員として
美里村登川の米軍部隊に外の仲間達と従事していた。隣には米軍の野外劇場が在り、
そこの清掃は屋嘉の捕虜収容所から送られて来るPW(日本兵捕虜)によって行われていた。
姉シズは、お昼休みを利用して、PWの一人に弟進康の消息について尋ねてみた。
この事が元上官であった天口曹長に伝わった。天口曹長は、幸運にも捕虜となり
屋嘉に収容されていた。当時、将校等以上の捕虜は、一般兵とは区分され、
二重の金網の中に収容されていた。天口曹長も、その一人であった。
嘗ての部下、又吉進康の遺族が進康の消息を探していることを知った天口曹長は、
如何にして部下の死を遺族に伝えるかに迷った。やがて、戦闘突入から戦死するまでの状況を
書くことによって知らせようと思い立った。
早速、米軍払い下げの藁半紙に戦闘の一部始終を鉛筆で書きまとめた。
書き上げた手記を遺族に届ける方法が問題であった。そのことは、
尋ね人を知らしてくれたPWの一人に双方の都合を聞いて日時を設定してもらった。
日時が決まると、姉シズは、アメリカ製タバコを箱から取り出し、
バラにして紙に包んで約束の時間を待った。一方、天口曹長は、
収容所の外に出ることを禁止されていたが、一般兵捕虜に紛れて知花の野外劇場の
清掃作業に参加した。約束の時間に双方はタバコと手記を交換した。
監視のMPに持っている物を尋ねられたが、お菓子だと答えると、
別に咎めようとはしなかったという。天口曹長は、手記を姉シズに渡し、大任を果した。
以下は、「元上官・天口曹長の手記による又吉進康の奮戦記」である。
(聞き取り調査 當眞嗣長)