終戦を知らず自然壕で二年余 南恩納 佐渡山安棟
防衛隊召集
私に防衛隊召集の令状が発せられたのは昭和十九年十月二十四日頃であるが、受け取ったのは二十九日であった。
当時、私は、普天間農事試験場で農兵隊(食糧増産隊)の宿舎準備にあたっていたからである。
その日は、夜どおし歩いて午後七時に本部の渡久地港から、
伊江島 行きの船に乗り、
午後八時頃、先に現地入りしていた、村出身者が居る所に着いた。兵舎も無く、松林の中で野宿していた。
入隊した部隊は、球一八八一六部隊(一名五〇一部隊)と呼んでいた。
兵舎は、茅葺き長屋の土間に一尺位上げた床板を敷き、雨露をしのぐ程度のものだった。
後で、板張りの三角兵舎になっていた。
私達の任務は、飛行場整備と訓練であった。主に竹槍訓練であった。
昭和二十年二月末頃から南方方面の戦況が悪くなったので、
島の北側のソテツ山を切り開いて飛行機の避難道路を作り始めた。
三月の初め頃、農兵隊の事務引き継ぎのため、五日位の外泊許可をもらい、我が家に帰り、用件を済ました。
帰隊して間もなく、飛行場破壊命令が出て、破壊作業に取りかかった。
まさか、沖縄で地上戦が始まるとは思っていなかったので、意外な事であった。
三月の末頃からは、各小隊の陣地構築に取りかかった。私は、仲地善吉少尉の隊に属していた。
古墓を利用して壕を掘り、待機していた。
米軍、伊江島に上陸
四月十四日朝六時頃、敵の戦艦七隻が陣地の真下の海岸近くに一列に並び、艦砲射撃が始まった。
私達の壕を目標にしているらしく、壕は揺れ動いた。
武器を持たない私達は、なす術もなく、壕の奥でうずくまるしかなかった。
このとき仲地隊長は、詩吟を唄い隊員の士気を鼓舞した。しかし、米軍の戦力が強大であることを思いしらされた。
一日おいて、十六日、早朝から、米艦船から艦砲射撃が始まり、
同時に水陸両用の戦車が、私達の壕の東側の砂浜に上陸した。
間もなく私達の壕の下まで進出した戦車から蓋を開け頭を出した米兵が周囲を見回していた。
鉄砲以外に武器はないので戦車がたち去るのを待つばかりであった。
日が暮れたので、隊長以下全員、島の北西方の竹山に移動した。
島の西海岸は、自然壕が多いので島の住民や防衛隊も竹山に集結していた。
斬込み命令
三日後、防衛隊の統制がとれないので今晩、斬込みを実行するとの隊長命令が下った。
敵陣を突破して城山の井川隊に合流するようにということだった。
私達は、訓練に使っていた竹槍は、もとの壕に置いたままだったので、斬込みといっても武器は無いので、
手榴弾を二個持って、晩九時頃に各隊は出発した。
私達の仲地隊は、竹山の壕から南東に向かい、飛行場を横切って松林の中を通り、
その時、松の枝を折って、手榴弾を投げ終ったら、その枝で敵を攻撃することにした。
松林を出て南の海岸近くに出ると千人壕の上の防風林であった。
千人壕から東へ三百米位行った所は、敵が上陸した地点であり、大きな岩が防風林の中にあった。
仲地隊長の伏せの号令が発せられたが、すでに敵は、我々を探知し、手榴弾や機関銃を浴びせてきた。
隊長は「さがれ」の命令と同時に、先にさがったので、我々も後につづいた。
これまで進んできた道を戻り、竹山の壕に戻った。
隊長は、道に迷い、翌朝竹山に戻ってきた。
浜から斬込みに行った隊員の多くは戦死し、竹山に帰ってきたのは僅かであった。
隊長達は、全員が帰って来ていた。私は、隊長達の使役に使われていたが、
村出身隊員達から、早く我々の壕に来なさいとすすめられていたので、
隊長達には、無断で恩納村出身隊員の居る壕に入った。
脱出計画
此の壕では、米のご飯や牛肉もあり、腹一杯、御馳走になり、その晩から、行動を共にすることにした。
伊江島の村民は、家を焼かれ、住む所もなく多くの人が竹山の壕に避難していた。
夕方になると海岸に下りて、水を求めて右往左往していた。
その姿は気の毒で、日本政府は、どうしてこのような戦争を始めたのか、腹だたしくなった。
竹山に戻ってからは、各人、自由行動をとるようになり、恩納村出身者七人は、初めは一緒であったが、
二人一組で筏をつくり、本部備瀬に渡る計画をしていた。皆が一緒に海に入ったが、
湧川の方から敵の機関銃弾が飛んでくるので沖の方へ出た。今度は、潮流が早く、流されるおそれがあるので、
諦めて、全員、元の壕に戻った。
暗い晩だったので、皆は、陸上から東崎へ行く準備をしていた。
私は、どうせ死ぬなら楽して死んだ方がよいと思い、一人残った。翌日、大城盛光さんが壕に来た。
「恩納の連中は」と言うので、夕べ東崎へ行ったことを告げると、
「自分も一緒に行けば良かった」と残念がっていた。
「私も居るではないか」と言うと、「そうだ。二人は一緒に行動しよう」ということになって、
その晩は、壕にとどまった。
翌日の夕方、東崎に行く準備をした。海岸に大きな杉の丸太があったので、二人で岸まで転がし、
海に浮かべたら、かるく浮いたので、私が先に乗ったら、よく浮いた。
つづいて盛光君も乗ったら二人ともひっくりかえって全身濡れ鼠になった。
岡に上ったら盛光の姿は見えなくなっていた。
声を出すことも出来ないので、一人、海岸づたいに東崎を目あてに歩いて湧川まで来た。
幸い米軍は居なかったので、腹いっぱい水を飲んで東に進んだ。
深い海になっていたので岡に上がれる所はないかと探したら、ゆるい崖があったので、
やっと岡に上がり、東の方向に歩いた。
しばらく歩いていると腐臭がするので、
よく見たら友軍が戦死して大分腐乱しているようでウジがサラサラ湧いていた。
安らかに眠るようにと両手を合わして、その場を後にした。
農道づたいに東の方へ歩いた。東崎近くまで来ると、海岸の方から人の声が聞えてきた。
敵兵だと思って身を隠していると友軍だったので、その方へ行くと、誰かと誰何された。
私も友軍だと答えて近寄って行った。
その友軍は、城山守備隊で金武村出身の上江洲さんと、もう一人は、本土出身の兵隊だった。
東崎へ行くところだと言うと、此処から先は敵の陣地が多いから行くなと言われた。
二人は、筏の材料になるものを取りに部落に行くところだと言うので、一緒について行った。
城山の東側の畑まで行くと敵の照明弾が打ち上げられたので、断念して海岸へ戻り、
二人が隠れていた壕に泊めてもらった。
翌晩は、二人が食糧探しに行くというので、私も連れていってくれるよう頼んだが、
他の隊員は駄目だと断られた。
しかたがないので、二人の隠れる壕に戻り一晩泊めてもらった。
翌朝、この壕を出て海岸に出た。
ところどころに窪地があったので、身を隠していた。午前十時頃、米兵の声がするので、
その方向を見ると三人位の米兵が海岸に下りてくるところだった。危険を察して窪地づたいに波打ち際に出た。
幸い小さい横穴があったので、尻から先に中へ入った。十分ぐらい経った頃、穴の上に靴音がした。
幸い米兵に発見されることなく、米兵は、陸の方へ上って行った。やっと命びろいをした。
安全な場所を求めて
附近に安全な場所がないので、西崎の方へ戻った。途中、アダン林で一夜を明かした。
夜明けに海岸へ出たら、崎本部出身の仲地善蔵氏に会った。
仲地氏は、四・五日ちかくの壕に暮らしているが、敵は全然来ないという。
私も一緒に入れてくれと頼む。彼は、快諾してくれた。
翌朝、用たしのため海岸に出た。そこで、池宮城上等兵に出会った。
仲地さんとは、同郷出身で知り合いだったので、三人で暮らすことにした。
仲地さんが海岸から拾ってきた缶詰は、米軍のポテト缶詰だった。
昼は、岡のソテツ山に隠れて、五時頃、壕に戻った。
しばらくして、浜の入口から米兵が懐中電灯を照らして入って来た。
岡側にも入口があったので、そこから逃げようとした。しかし、そこからも米兵が入ってきて拳銃を発射された。
幸い、誰も弾にあたらなかった。その時、池宮城上等兵が手榴弾を投げたので米兵は、電灯を捨てて逃げ去った。
夕食をとってからも、安全な壕を探すため、海岸に出た。
岡の中腹で火の明かりが見えたので、その方角へ行ってみた。
数人が逃げる様子だったので、友軍だと声をかけると、二人が残った。井川隊の兵だった。
住民と一緒に避難していたが、昼頃、
敵兵が現れ、住民は、捕虜になったという。
兵は残ったので、敵は、壕にガソリンを流し、火攻めにされたという。
今も住民の持ち物が燃えているとのことだった。
壕の中には、米や鍋、飯盒なども有った。仲地さんに飯の支度を頼み、池宮城さんと私は、筏の材料を探しに出た。
途中、又も敵に発見され、機関銃の一斉射撃を受けた。
池宮城さんは、戦死したらしい。私は、左足を射たれ、血まみれになった。
タオルで傷口をしばり、ようやく壕に辿り着いた。誰も居なかった。銃声を聞いて逃げたらしい。
夜明け前に仲地さんが帰って来た。昨夜受けた傷では、到底逃げることは困難であるので、
私は、この壕で死ぬから、あなたは、無事に生きて郷里に帰ってもらいたい。
そして、私の家族にこの壕の模様を伝えてくれるよう頼んで二人は、別れた。
島の少年
翌朝も敵兵は、壕に弾を撃ち込んだ。暮れてから足を引き摺って壕の入口まで這い出た。
外は静かで初夏だった。二日目の朝、再び奥に避難した。
今度は、壕の中の西側に行った。人の声がするので、誰かと声をかけた。
「島の少年です」と返事が返ってきた。事情を聞いた。一昨日、家族は米軍の捕虜になり、一人残っているという。
アダン林の中に一人避難していると敵に射たれ、一時は意識不明になった。
意識が戻り、壕に行ってみたら、家族は、捕虜になり連れ去られた後だったと言う。
気の毒に思ったが、私も負傷者で、どうにもならない。
「君は子供だから、殺さないはずだ。ここに居ても、死を待つのみだ。米軍が来たら勇気を出して外に出なさい」
と言うと、
少年は、「兵隊さんは、どうなさるのですか」と言った。
「私は、兵隊だから殺されるに決まっている。私は、この壕で死ぬから、君は、早く出て家族のもとへ行くんだ」
と励ました。
少年は、私の説得を受け入れた。
その時、奥の方で人の気配がするので、誰か居るのかと聞くと、老婆が一人居ると少年は、答えた。
手探りで老婆の居る場所へ行き、少年と一緒に外に出るよう勧めた。
初めは、怖いから出ないと言っていたが、「少年も一緒だから心配しないで出なさい」と促したら、納得した。
その時、壕の外から、人の声が聞えてきた。
「私は、防衛隊員だが今は、捕虜になっている。米軍は、絶対に殺さないから安心して、早く出なさい」
と大きな声で呼びかけている。
「あの声は、沖縄人の声だから安心して出なさい」と勇気をつけて送り出した。
一人壕に残る
少年と老婆が壕から出ると、外で呼びかけていた防衛隊員が懐中電灯を照らして、中に入ってきた。
私を見て「心配ないから早く出なさい」と再三説得した。私は、「捕虜には、ならない」と答えた。
防衛隊員は、「気の毒に」と言って、外に出ていった。
「中に負傷兵が一人居るが出ないと言っている」と報告しているようだった。
それと同時に敵兵は、小銃や手榴弾を撃ち込んで、十五分位して引き揚げていった。
壕の中に一人残ると、淋しさと空腹に傷の痛みが同時におそってきた。
ふと、少年が「奥に砂糖がありますよ」と言っていたことを思い出し、その方へ行ってみた。
そこには、相当量の砂糖が残っていた。少年に感謝しながら砂糖を頬張った。
もっと安全な場所はないものかと暗い壕の中を方々探していると、人の頭に触れた。
冷たくなって腐敗し始まっていた。死者に合掌し冥福を祈った。
死者の奥上に小さな横穴があった。よじ登って見ると奥は、大きな壕だった。
この場所なら安全だと思い、昼中は、この壕で暮らすことにした。
米兵は、度々、電灯を照らし、壕内を捜索していたが、奥の壕には気づいていないようだった。
身を隠す場所に安心したが傷の痛みと空腹には堪えられなかった。四・五日間は、生米を食べた。
日没直前に壕の入口に出てみると煙草とマッチが置かれていた。これ幸いと飯盒で飯を炊くことにした。
数本のマッチを使いはたしたが、火はおこらなかった。仕方がないので、気やすめに、壕の上に行ってみた。
芝生の上に、マッチの軸が一杯入ったマッチを見つけた。
これで火を起こし、海水で炊いた飯は十何日振りの美味しいものであった。
その頃の一番の悩みは、壕内の死者から発する腐臭であった。昼中は、壕内に、夜は壕入口で寝た。
共同生活
別れてから一ヶ月位も経った或日、仲地さんが壕に現れた。
彼が語るところによると、アダン林の中で暮らしているとのことである。その日から夕食は、二人でとることにした。
十一月になって、彼が、袋を担いで壕に入ってきた。
アダン林での生活を米兵に発見されたらしく、危険だから壕で一緒に暮らそうということである。
その日から、二人の共同生活が始まった。
壕の上南方に
米軍の高射砲陣地が在った。
急に電灯が消え、人気がないので、様子を見に行ったら、部隊は引き揚げたようである。
米軍の塵捨て場に行ってみると、米・豆類・砂糖・塩などがトラック一台分も捨てられていた。
仲地さんを呼び、二人で十俵を壕に運び入れた。
翌晩も運びに行ったら、昼降った雨で濡れ米になっていた。それでも選り分けて十俵を運び入れた。
それからも仲地さんが夕食を準備する間に三日間は、三俵づつ運んだ。これで食糧の心配はなくなった。
冬に向って衣服の心配があった。
米軍の兵舎跡に行ってみると、服や毛布も在り、持ち帰り、衣服・寝具の心配もなくなった。
兵舎の跡から板を取りはずし、床も敷いた。
仲地(以後、仲地と呼ぶ)が木を削り始めたので、何をするかと聞くと、
三味線を作るんだと言う。
二・三日で棹が出来た。私が
空缶と落下傘の紐を探してきた。早速とりつけると本物の三味線の音がでた。
以後、
暗い晩や、雨の晩は仲地に弾いてもらい、不安な暮らしの中でも心を癒すことができた。
米軍が引き揚げた後は、安心して兵舎の中を探しまわった。
鉛筆と白紙もあり、それで
日誌を記入することにした。
旧暦には自信があったので、旧三月から書き始めた。三日月や満月、潮の干満等を勘案して日付けを記した。
私達が壕から救出されたとき、伊江村民に「今日は、旧暦の六月二十三日でしょう」と聞いたら
「いや、五月の二十三日だ」との」ことだった。私には、その年が閏年であることに気付いてなかったのである。
三月十日頃、急に発熱して、寒気がした。一日おきに、同じ時間に症状があらわれた。
五日後に仲地も発熱した。二人も一日おきに発熱したので炊事は、交替で行った。
仲地が塵捨て場から探してきた袋の粉薬を飲んだら急に身動きも出来ず倒れた。
翌日は、けろっとして元気になった。一袋は強過ぎるので半分飲みなさいと言われ、分けてもらった。
飲んだ翌日からは、元気になった。四十五日間の苦しみは、この粉薬で楽になった。
昭和二十一年四月十八日だったと思う。月の美しい晩だった。
高射砲陣地跡に行ってみると、ススキの中に紙箱が積まれていた。
米軍の缶詰の箱だった。これは、祖先からの恵みだと、郷里に向かい、手を合わして一箱を担いで壕に戻った。
その日から一ヶ月位は、毎晩三・四回に分けて壕に運び入れた。
食糧の心配が無くなったので、仲地は、三味線を作り始めた。出来あがると、
私も三味線を習い始めた。
むつかしかったが、次第に慣れて
歌も歌えるようになり、夜は楽しく暮らせるようになった。
昭和二十一年、旧の大晦日には、五品の御馳走を作り、健康を祝し、一晩三味線を弾き唄い明かした。
伊江村民により救出される
戦争は、あと何年続くか知れないので食糧確保のため、芋を植えることにした。
壕の上の畑を耕し、十坪位に芋蔓を植えた。
五月十五日だったと思うが、東崎まで行ってみた。
かまどの灰の臭いがした。近くに民家があるのではないかと思い、方々歩き廻った。
溜池があり、人の裸足の足跡が残っていた。沖縄の人が住んでいると思い、付近を探した。
しばらく探していると月の明かりに照らされた米軍の兵舎が建ち並んでいた。
これは大変だと思い壕に逃げ帰った。後に、その建物は、伊江村民の共同住宅であることを知った。
六月十五日頃から私達の干し物がなくなる事があった。又、壕の入口で人の声がした。
てっきり米軍が来たのだろうと思った。念のために芋畑まで行ってみた。何の被害も無いので安心した。
五月二十二日、夜中から畑に行き、明け方まで芋蔓を植えた。
その帰りに見たのは、意外にも、
『村民来た、早く壕からでなさい』と壕の上の芝生に鍬で書かれていた。
仲地が干物の下に手紙があるというので、読んでみると、東江上の友寄区長からのものであった。
『伊江村民は、沖縄本島から全員帰島した。君達は、生きて良かった。
今度の戦争で死んだのは、犬死にみたいだ。
村民は、温かく迎えるから心配しないで、早く出なさい』とあった。
壕に入り、朝食をすますと、人の声がした。よく聞くと、伊江島訛りの言葉である。
その人は壕の外に出て行ったので、後について行った。壕入口で三人の青年が何か話していた。
私が方言で
『ハイサイ』と声をかけた。三人は私に、
『早く出て来なさい』と手まねきをしたので安心して外に出た。
久し振りに太陽の光を浴びた。二年余のモグラ暮らしが嘘のような懐かしい陽光であった。
私は、青年達に戦争の状況を聞いた。
戦争は二年前に終わり、日本は敗戦になったとのことである。
「生甲斐はあるか」と問うた。「死んだ人達は、犬死にみたいになった」との答えである。
これまで戦争は勝つんだ、国のためにと教えられ、頑張って来たことが、もろくも足もとから崩れ去り、悲しかった。
伊江島の女子青年も斬り込みに参加し、多くが戦死したとのこと。村民も三分の一が戦死したとのこと。
青年達の話を聞いて、ようやく敗戦になった事を納得した。
青年達に案内されて、村民の居る所に連れていかれた。
村民は涙を流して私達二人を迎えて下さった。
心から有難いと思った。
その晩は、三人の青年達も壕で一緒に寝た。
『戦争は、人類を滅亡に導く手段でしかない』